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ぴぃこ、息を吸う

アニオタ混じりのエイターで、絵を描く自称会社員のブログよろしく!

スコセッシの『沈黙ーサイレントー』を見て考えてみた

最近、映画の感想が多い私。『沈黙−サイレンス−』を見てきました。

あらすじ

舞台はキリシタンへの弾圧が激しい1630年代の長崎。イエズス会の神父ロドリゴとガルーペは師であるフェレイラ神父の消息を追い、長崎へ密航する。彼らは日本での苛烈なキリシタン迫害を目撃し、現実に苦しみしながら旅をします。

苦難の道を行く神父の信仰と葛藤を描いた作品です。

原作は遠藤周作の『沈黙』。キリスト教徒として知られている文学者の傑作を、巨匠マーティン・スコセッシが映画化しました。

神父を志したこともあるスコセッシが実写化を熱望し、20年以上もの間温めてきた宗教を題材にした作品です。見るしかないでしょう。

感想が出ない映画

見終わっての感想は「あまりに丁寧に作られた作品は、率直な感想が出せないものなのだな」でした。

唯一見た人が共通して思えることは「日本人キャストの演技が素晴らしかった」というものしかありません。

今回はそんな『沈黙−サイレンス−』を完全ネタバレで、言語化できる限り、言語化していきたいと思います。

生きることの矛盾

作中には、人々の矛盾する言動がたびたびみられます。

布教の最中、若い神父ロドリゴとガルーペはまず生きることの矛盾に直面するのです。

キリスト教を布教するには生きて日本にい続けなければいけない。しかし、日本に自分たちが居続け布教することで弱い立場の信徒たちが迫害にあってしまう。

生きて使命を果たすことが神の教えであるなら、それに従う自分と信徒はどうして苦しむのか?と神の声を待っても何も聞こえません。

ついに役人たちに捕まったロドリゴは、また新たな矛盾を抱えます。自分が棄教しないことで、キリシタンの百姓たちが殺されて行くのを見せつけられたロドリゴ。「日本という沼にキリスト教が根を張ることができない」と役人たちに言われ、自分たちの布教のせいで貧しい百姓たちが犠牲になったと責められるのです。

弱き人を救うために広めたはずの信仰が、人々を苦しめている現実に直面したロドリゴは、大きく心が乱れます。

命や信仰自体が自分のものだけではないからこそ、両方を守ることが難しい。人間の矛盾を淡々としかし鋭くついていると感じました。

信仰の形

その矛盾は若い神父の厚い信仰をも蝕もうとします。

捕まったロドリゴはついにフェレイラ神父と再会を果たします。しかし、フェレイラ神父は噂通りに棄教し、日本人として暮らしていたのです。落胆する彼に向かいかつての師は棄教を促します。

信徒の百姓たちに、神の御子を問うと、神の御子といって太陽を指す。キリストは3日で復活したというのに。フェレイラは日本人に正しく信仰することはできないと言い放ちました。

過酷な中、熱心に布教しても信徒にすら理解されない教義に、ロドリゴも疑問を感じ始めます。

彼らがポルトガルに生まれ、子供の頃から培ってきたカトリック信仰と、日本で広まる「キリシタン」はまるで別物だった。

苛立ちと落胆を感じながらも、諦めきれないロドリゴ。最後に踏み絵を踏むまで1人語りが続きます。

このシーンを見ながら私は、フェレイラ神父に対して「ん?イヤイヤそれはちょっと違うんじゃない?てかロドリゴもさ、それでグラついちゃうのはどうなんだ?」と心で突っ込んでしまいました。

正しく教義は理解できなくとも、信仰にいきる信徒たちの本心を、彼らも理解していないように見えたからです。

神のもと、全ての人は平等である。

ガチガチの身分制度のもと形として平和を築く幕府にとって、キリスト教の根底にあるこの言葉は「危険思想」以外の何物でもありません。

教義は理解していなかったとしても、厳しい身分制度と貧しさのなか、救いを求める百姓たち。聖書や司祭制度がない日本のキリシタンコミュニティで、「小難しいことやムダなものを削ぎ取って、ただただ信じる」宗教の原子みたいになった"キリシタンキリスト教"のようなもの。拷問に耐える姿は一人一人がキリストと重なります。

多神教な日本に生まれ日本から一度も出たことのない私には、そんな風に感じ取れました。

宗派のつながりはなく、教義を正しく理解はしなくとも、神を見出すことはできる。そういうことに彼ら神父は理解できてないんじゃないの?形にこだわりすぎてない?と。

ついに、ロドリゴは棄教をしてしまうのでした。

通訳の浅野忠信が発した言葉「形だけだ」。これは、神父たちも同じく信仰の形にこだわるが故に心に効いたのでしょう。

キチジローの存在

そんな、己の矛盾をどうするか?

それを問いかける存在がキチジローでした。

多くの信徒が信仰を守り命を奪われる中、キチジローだけが信仰を何度も裏切っても、なぜかロドリゴのそばを離れず、終始物語に登場していました。

「弱い自分でも神の赦しを」と何度も告悔しては、平気で踏み絵を何度も踏む。しかも奉行所ロドリゴを売り渡したのはキチジローなのにです。

「こんな男を許す価値があるのか」と神に問いかける神父ロドリゴ

でも棄教後も召使いとして仕えた彼は裏切り者ながら、ロドリゴの一番の理解者でした。

もしかしたら、キチジローを許せなくなった時点で、ロドリゴは棄教への道筋を決められていたのかもしれません。

出番を終えた役者が舞台を降りるように連行されるキチジローは、最後まで神父としての信仰心を試すのでした。

まとめ

キリシタンへの残酷な拷問と処刑の数々、ロドリゴの苦悩。全ての出来事がまるで神の目を通しているように、淡々と描かれていました。

2時間40分と長い上映時間ですが、無駄なシーンは一つもありません。

スコセッシ作品は人々の倫理観を描いたものが多いですが、これも同じく全ての出来事が観客に答えのない問いを投げかけています。

キリスト教は浸透しなかったものの、クリスマスを祝ったりチャペル挙式したりとかなりメチャクチャな現代の日本。そこに生きる私なりの視点でしかまとめられませんが、形にこだわり強固になりすぎると、逆に脆く折れやすくなる危険性も、スコセッシは伝えたかったのだと解釈しました。

現代でも、その問いはいつまでもあり、答えが出ないものです。自由に見えても、格差社会や苛烈な競争意識で、自分の良心のまま生きることが難しいのは江戸時代と同じです。善悪を解くことは、矛盾を抱えた己の心と向き合う勇気を試されていると思った映画です。